奥州 秋保温泉 蘭亭
〒982-0241 仙台市太白区秋保町湯元字木戸保7
↑蘭の花のモチーフを館内の随所にあしらい、優雅で心なごむ時をお届けする宿。
蘭が舞う華やかな風情と話題のエステに癒され、創作料理に舌鼓。
農林水産大臣賞受賞の有名料理長が腕を振るう創作料理は驚きの連続。話題のエステを浴衣で気軽に体験できる癒しストリートや、風情ある庭苑野天風呂、曲水庭苑など癒しとリフレッシュを揃えたお宿。
奥州旅行記
日本の旅 奥の細道を辿る【3】 芭蕉が訪ねた松島と仙台(by さすらいおじさんさん)
みちのくを代表する名勝松島が「宮島」「天橋立」 と並び日本三景の一つと言われたのは1714年ごろ、江戸幕府の儒学者林羅山の三男春斎が著書 「日本国事跡考」で「日本三処奇観」と記したことに由来するそうで、松島見物は芭蕉の奥州行脚の目的の一つだった。
奥の細道の中で「扶桑第一の好風なり」とそのあまりの美しさに驚嘆、 絶句し中国の名勝地の洞庭湖や西湖と比べても恥ずかしくないと絶賛した。しかし、松島では感動の余り俳句ができなかったとされている。一方、中国の文人の心得として「景にあうては唖す(絶景の前では黙して語らず)」との教えがあり、芭蕉はこれに感化され意識的に句を示さなかったとも言われている。芭蕉が詠んだ句と言われる「松島やああ松島や松島や」は、後にできた逸説で、あまり知られていないが旅の後に松島を思い「島々や千々に砕きて夏の海」と詠んでいる。芭蕉の句にしては、今一歩のできばえという感じがする。
芭蕉が感嘆した大小260余の松島の島々は、水成岩に松を頂き他では見たことの無い景観だった。
宮城県を代表する民謡、斉太郎節で「松島の 瑞巌寺ほどの 寺もない」と唄われる瑞巌寺は828年、慈覚大師円仁によって開創された奥州随一の禅寺で、伊達政宗の菩提寺。現在の建物は1609年 政宗が諸国から名工130人を集め、建材を熊野山から取り寄せ、桃山様式の粋をつくし、5年の歳月をかけて完成させたもの。唐戸や欄間、襖や床の間の豪華な絵画は日本の桃山美術の極致と言われ国宝に指定されている。
松島湾の一角にある鹽竈(しおがま)神社は東北鎮護・海上守護の陸奥國一宮で奥州藤原氏や中世武家領主より厚い信仰を寄せられ、伊達政宗以降歴代の藩主が大神主となった。
杜の都・仙台の顔は石垣・礎石・城壁を残すだけだが青葉城(仙台城)跡だろうと私は思っている。 伊達政宗が1600年から8年かけて築城し、以来270年間、伊達氏62万石の居城で標高132mの青葉山の上に築かれ広瀬川、と渓谷が自然の堀となっていた。
仙台出身の土井 晩翠(1871〜1963年)作詞の「荒城の月」は青葉城を詠ったと言われ、瀧廉太郎の作曲で1901年に完成、土井 晩翠のもう一つの名作「さくらさくら」とともに世界に知られる名曲となっている。
【荒城の月 (こうじょうのつき)】
春高樓の花の宴めぐる盃影さして千代の松が枝わけいでし昔の光いまいづこ。
秋陣營の霜の色鳴き行く雁の數見せて植うるつるぎに照りそひしむかしの光今いづこ。
仙台を代表とするもう一つの歌は星間 船一作詞、さとう宗幸作曲の青葉城恋唄だろう。
【青葉城恋唄】
広瀬川流れる岸辺 想い出は帰らず
早瀬躍る光に 揺れていた君の瞳
時はめぐり また夏が来て あの日とおなじ流れの岸
瀬音ゆかしき杜(もり)の都 あの人はもういない
仙台の情景を良く描いた歌だ。
瑞鳳寺は伊達家3代の菩提寺で、現在の建物は昭和の再建だが伊達政宗の霊廟・瑞鳳殿の壮麗さは、日光東照宮に次ぐと言われていた。
大崎八幡宮は仙台62万石の総鎮守で社殿は安土桃山時代の遺構として国宝に指定されている。
東北一の100万人都市・仙台は杜(もり)の都の名に恥じない緑に囲まれた美しい街だった。
(写真は松島の光景)
日本の旅 奥の細道を辿る【2】 芭蕉が訪ねた平泉・中尊寺と山寺(by さすらいおじさんさん)
岩手県・平泉では芭蕉は中尊寺と中尊寺の東南にある67mの丘高館(たかだち)・義経堂を訪問している。高館・義経堂は源義経が平泉に滞在中居住したところと言われ、藤原泰衡の軍勢に襲われ、義経はここで妻子とともに自刃したと伝えらている。
芭蕉は 杜甫の「春望」の
国破山河在 (国破れて山河在り)
城春草木深 (城春にして草木深し)
「国が破れ滅びても、山や河だけはむかしのままの姿で残っている。荒廃した城にも春はめぐり来るが、草木だけが生い茂るばかりだ」の詩を思い浮かべ、義経のあわれと奥州藤原氏の栄華盛衰の空しさに涙し有名な句を残した。
「夏草や兵どもが夢の跡」
高館・義経堂の下には広々とした田畑が広がっていたが、山も川も義経や芭蕉が見た姿と変わらない「夢の跡」の光景だった。
中尊寺を訪れた芭蕉は藤原清衡、基衡、秀衡三代の棺が納められ、三尊の仏像が安置されている光堂(金色堂)で寺の建物が、雨風で朽ちていく中で、金を張った光堂だけが昔のままに輝いているのを見て、光堂にだけは、五月雨も降り残しているのではないか、との驚きを持って一句。
「五月雨の降のこしてや光堂」
中尊寺の金で装飾された光堂(金色堂)、経堂などは奥州藤原文化の栄華を彷彿とさせるものだった。
人に勧められて訪れた山形県・山寺立石寺では、芭蕉は苔むした岩肌、松・杉・ひのきの老木の中、崖淵の参道を登り仏閣を参拝している。すばらしい景観が静寂の中で一層映え、心が澄み渡っていくようだと感動し名句を残した。
「閑さや岩にしみ入蝉の声」
山寺立石寺では「どうやって建てたのだろう」と疑問を持つような断崖絶壁にお堂が建てられている。岩山の穴には修行僧の遺骨を納めているそうで、中国の三峡で見た岩山の墓を思い出した。断崖絶壁は現在も修行の場となっており、修行僧が転落死することもあるそうだ。
その後芭蕉は最上川の急流を、仙人堂、白糸の滝などを眺めながら最上川河港「清川」まで下り有名な句を残した。
「五月雨をあつめて早し最上川」
残念ながら最上川下りをすることはできなかったが、平泉と山寺立石寺では芭蕉の歩いた同じ場所を歩くことができたことが喜びだった。
(写真は断崖に建てられた山寺立石寺)
日本の旅 奥の細道を辿る【1】 芭蕉が訪ねた飯坂温泉と磐梯高原、猪苗代湖(by さすらいおじさんさん)
1993年に初めての東北旅行を経験した。13日間というまとまった休暇が取れたので福島、山形、宮城、岩手、青森、秋田、新潟、富山と回ったが、途中では青森から青函トンネルを通って函館も訪ねた。この旅では各県の歴史文化、自然を知ることと、憧れの旅の俳人・松尾芭蕉が歩いた奥の細道を辿ることも目標だった。
旅の第一歩は福島県の飯坂温泉。1689年(元禄2年)3月27日
「行春や鳥啼魚の目は泪」
の句で見送りに来た弟子達との別れを惜しんだ芭蕉は日光、白河関などを見物し5月2日に飯坂温泉に到着。源義経が奥州平泉の藤原秀衡のもとから、兄頼朝を助けるために鎌倉にはせ参じたときからの家来、佐藤継信・忠信兄弟の菩提寺である医王寺を訪ねている。佐藤継信・忠信兄弟は義経の忠孝の士であり屋島の合戦で継信が義経を守って戦死した場面はNHKの大河ドラマ「義経」でも重要なシーンになっていた。佐藤継信・忠信兄弟の死後義経が平泉に落ちる途中に佐藤の館に寄ると佐藤兄弟の2人の嫁が亡き夫の鎧兜を身につけ、義経を助けたいと申し出た話は美談として芭蕉も感動している。医王寺が宝物にしていた義経の太刀や弁慶の笈を見た芭蕉は端午の節句の5月には、弁慶の笈も義経の太刀も、帋幟(かみのぼり)といっしょに飾って祝ってほしいと次の句を詠んだ。
「笈も太刀も五月にかざれ帋幟(かみのぼり)」
早朝に訪問した医王寺では檀家と思われる人達が熱心に清掃されていたことが印象に残った。
福島では磐梯吾妻スカイライン観光をし、吾妻小富士に登った。高村光太郎の智恵子抄で詠われた安達太良山は霧で見えなかったが周囲の景観は良かった。五色沼のコバルトブルーも神秘的だ。猪苗代湖では野口記念館が印象に残っている。世界的な医学者、野口英世博士(1876−1928年)の生家があり遺品を展示していた。野口英世を紹介した映画「遠き落日」でも猪苗代湖周辺や英世の生家でロケをしたそうだ。生家には英世が乳児のときに転落し、手に大やけどを負い、医学を目指すきっかけとなった囲炉裏もあった。展示品の中では映画でも紹介していたが、海外で活躍する野口英世に戻ってきてほしいと、たどたどしい文字で嘆願する、母の手紙に感動した。
(写真は五色沼)
岩手へ詣でる(by ちょこさん)
子年生まれの私は北の方角が良いらしく、
岩手へ向ったのです。
今年は毎年の中尊寺を変更して
1日は宮城築館の杉薬師、
2日は岩手水沢(奥州市)の黒石寺と正法寺
3日は平泉の中尊寺を歩きました。
青春18切符 明治のかおり漂う 旧伊達郡役所ー?(by 義臣さん)
明治初期の日本の大工さんが西洋風の建物を。
苦心の跡が見えるようです。
プラザイン水沢
〒023-0003 岩手県奥州市水沢区佐倉河字後田29
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プラザイン水沢
〒023-0003 岩手県奥州市水沢区佐倉河字後田29
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